ChatGPTで知的生産の方法が大きく変わる,ホワイトカラーの職が数多く奪われる,はたまた,いまのバージョンはまだ精度が悪いけれど,どんどん改良されて人間と同等になる,など,生成系AIに関するさまざまな意見が交わされている.しかし,私はさほど悲観的には考えていない.何が正しくて何が正しくないかを判断する主体が人間である以上,見た目の精度は多少は上がったとしても越えられない壁があるからである.
これまでにも「ChatGPTでプログラマはお払い箱になるのか」等の記事でいろいろ指摘してきたように,人間の営みが人間主体で行われる以上,ChatGPTが置き換えられる作業は限定的であると断言できる.先日,ラジオで「ChatGPTは医師を置き換える可能性はあるが看護師は置き換えない.身体性に欠けているからである」というコメントがしたり顔で報じられていたが,そういうことではない.
次の例を考えれば,分かりやすいだろう.
例として,大学での教育を挙げよう.知識伝達型,講義形式の授業はChatGPTで不要になる,というような意見も聞こえるようになった.本当にそうだろうか?
極論を言うと,知識伝達型,講義形式の授業はChatGPTで不要になるならば,ChatGPT以前に不要にできているはずなのである.すなわち,学生は自分で教科書を読んで勉強し,自分ひとりで学習すればよい.学習者としてそれができるならば.
従前から,教室に集まり,講義が行われているのは,自律的に学習を一人で進めることのできる学生はさほどいないからだ.もちろん,自律的な学習者は皆無ではあるまい.そのような学生もいるにはいるだろう.しかし,多くの学生にとって,教室,講義,教員,演習といった各種の学習支援装置が必要だからこそ,大学での教育が成立しているのである.
そう考えると,おそらく大学教員がAIを脅威に感じなければならないタイミングは,ChatGPTの高度化などではなく,ママジンが実現されたとき,ではなかろうか.ママジンは感情を持つ,というか,設定では感情を持っているように高度に振る舞うことができる,かな.人間の感情,ときには理不尽かつ非合理な様相を見せるその「感情というもの」を,それっぽく見せられるようになったときに,いよいよ引導を渡されるのではと想像する.
大学での教育に限らず,知的生産の職場でも同様の議論が可能であろう.もちろん,それ故にChatGPTを否定しているのではなく,ChatGPTをうまく活用する方法はいくらでもあるだろう.そのようにAIをうまく活用できるひとが,今後は活躍していくようになるのかもしれない.そのためには,やはり技術や情報を鵜呑みにするのではなく,批判的に考えること,クリティカルシンキングが重要なのである.
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