2025年12月1日月曜日

続・猿の街へ(お気楽クルンテープ通信 No. 19)

列車に乗ってロッブリーを訪れた話の続きである.駅を降りて,祭りが行われている会場のはずの,プラ プラーン サーム ヨート(Phra Prang Sam Yot)寺院に歩いて向かった.駅からすぐである.5分もかからない.

ところが同遺跡は閑散としていた.観光客がいないわけではない.私と同様,祭りを目当てに来ているらしい欧米人ぽい観光客もちらほら,数人,歩いている.ちゃんと調べてこない,いや,調べてはきたんだが,十分な情報を得られなかった粗忽者が私の他にもいた!と思うと安心する.

どうも,今年は,数ヶ月前に猿たちの大量捕獲をやったらしく,祭りも中止になったらしかった.なんたること.それでも,路地裏には生き残っていた猿たちがいて,ああ,やはりここは猿の街なんだと,わざわざやってきた自分を納得させたのであった(写真).もうそれで満足である.

そんなわけで,祭りの賑わいは体験できなかったが,かえって静かに観光できたのは良かったのかもしれない.プラ プラーン サーム ヨートで観光チケット200バーツを購入,ふらふらと街を散策してみることにした.

なお,プラ プラーン サーム ヨートを観るだけなら50バーツである.というか,外から観るだけで十分と思われ,拝観料を払う必要もないかも.

200バーツのチケットを買うと,プラ プラーン サーム ヨートの他に,ワット プラ シー ラタナー マハータート(Wat Phra Sri Rattana Mahathat),クライソンシーハラート宮殿(Kraison Siharat Palace),バーン・ウィチャエーン(Wichayen Residence)に入場できる.クライソンシーハラート宮殿はかなり離れた位置にあったので断念したものの,残りの三つは歩いて回れるエリアにあるので散策することにした.

今回は,プラ プラーン サーム ヨート,バーン・ウィチャエーン,ワット プラ シー ラタナー マハータートの順番に回った.

バーン・ウィチャエーンからワット プラ シー ラタナー マハータートに向かう途中,市街地を通り抜けていくと,テーサバーン1市場というマーケットがあるエリアがある.このエリアは街全体が露天市になっていて,とても活気がある.何かを買わないまでも,そぞろ歩きするだけで楽しかった.

ワット プラ シー ラタナー マハータートも,観光客はほぼおらず,ゆっくりと時間だけが流れていく感じを体感できる.天気もよく,ゆったりとした時間が素晴らしかった.

ワット プラ シー ラタナー マハータートは駅前にある.アユタヤ王朝に思いを馳せる時間を堪能し,駅に向かうと,ちょうど10:56発バンコク行きの列車が来るところだった.帰りは座席指定なし,28バーツ.日本円にして100円ちょい.タイ国鉄は貨幣価値の感覚を狂わせる.

往復5時間,滞在わずか1時間のショートトリップではあったが,十分に堪能した.ロッブリー,いいとこですよ.

猿の街へ(お気楽クルンテープ通信 No. 18)

週末を利用して,ロッブリーという街に行ってきた.バンコクから列車で2時間くらいの地方都市である.

ロッブリーは,アユタヤ王朝時代に第二の都市として栄えた街として知られている.が,今では猿に占拠された街というほうが有名なのではなかろうか.日本は最近,熊が街まで降りてきていろいろ事故が起きているらしい.一方,ロッブリーは野生の猿,カニクイザルが街を占拠してたいへんなことになったことで世界に知られた街なのである.

そんな猿たちに果物や野菜やらをビュッフェ形式で提供する祭りがあると聞いて,タイ滞在中にぜひとも訪れてみたいと,かねてから考えていたのだ.その祭りは11月最終週の日曜日に行われるという.奇しくも昨日は11月30日の日曜日.いてもたってもいられず,朝イチの列車に乗って,ロッブリーを訪れた.

バンコクからロッブリーに行く列車は1日に数本出ていて,一番列車は111便,クルンテープ・アピワット駅を7:30に出発する.朝のクルンテープ駅は閑散としていたが,乗り場前の待合場所は乗客で賑わっていた.

バンコクの中央駅といえばファランポーン駅が伝統のある中央駅である.対して,バンスー駅,改め,クルンテープ・アピワット駅は,将来,チェンマイに至る新幹線の乗り入れを見据えて近代的かつ巨大な駅になっている.列車への搭乗も,飛行機にボーディングする際のような近代的な手続きになっていた.

なお,MRTブルーラインとSRTレッドラインの乗り換えはわかりやすい一方で,長距離列車乗り場は北の端に向かって閑散としたなかを延々と歩かされるので要注意.本当に大丈夫?と不安になりつつ進んでいくと,到着,再び人の賑わいが現れる.

行きの列車はかなり混んでいて,途中のドンムアン駅を過ぎるとほぼ満席になっていた.3等車のボックスシートは座席指定込みで50バーツ,たいへん安い.座席の番号が列車の壁にマジックで手書きだったのはご愛嬌というか味があるというか.

行きしはずっと窓から外を見ていた.線路に並行して新幹線の高架を建設中の様子がよく見えた.進捗具合は,2〜3割といったところだろうか.いつ出来上がるか知らないが,東南アジアのことだから,気が付いたら出来上がっていたということになるのだろう.

さて,のんびりとしたタイ国鉄の旅だが,車内販売のオババがひっきりなしに通路を行ったり来たりしていたのはいささか鬱陶しかった.お弁当はちょっと美味しそうだった.ただし,朝ごはんは家で食べてきたし,まだ朝なのでお弁当を食べる時間でもない.

バンコクを出発してから2時間強で,列車はロッブリー駅に滑り込んだ.ロッブリー駅では猿がお出迎え(写真).本当に猿推しの街なんだなあ.

長くなったのでこのへんで.続きは次回

2025年11月29日土曜日

バンコク日本食(ただしB級グルメ)事情(お気楽クルンテープ通信 No. 17)

私は基本的に,郷に入っては郷に従う派なので,海外に出ても日本食が恋しくなるということはあまりない.しいていえば,ときおりラーメンを食べたくなるくらいだろうか.もういい歳なのだから,健康に配慮して,塩分脂分過多のラーメンは控えなさいと,医者には叱られてしまいそうだが.

現地の食文化にすぐ馴染める性格は,若い時分,サンタフェに短期留学したときから今に至るまで変わらない.サンタフェ滞在は1ヶ月にも満たないごく短い期間ではあったが「ぜったい醤油味が恋しくなるからスーツケースのなかに醤油を忍ばせておけよ」と先輩からアドバイスされた.それを真に受けた私は,小さな醤油のペットボトルを鞄のなかに入れて旅立った.

しかし,サンタフェという土地柄か,米国にしては食事が美味しく,日本食が恋しくなることは,ついぞ,なかった.滞在していた大学にあったカフェテリアの食事はそこそこ美味しく,街に出ればテックスメックス,メキシカンの店も多い.カリフォルニアからはジューシーな果物がたくさん入ってくる,そんな場所だったので,東海岸のような,もう,途方にくれてしまうような食事事情ではなかったのが幸いした.

その結果,持ち込んだ醤油のペットボトルは,結局,封を切らずに日本に持ち帰ることとなった.

さて,バンコクの話である.私はいま,プロンポンという日本人が多い街に滞在しているので,日本語の看板がしばしば目に入るということは,すでに述べた.しかし,一人で和食のレストランや日式居酒屋に,いまのところ行こうとは思わない.

これまでの海外出張では,現地の駐在員と仕事の夜は懇親会という機会もしばしばあった.和食の店に行くこともあり,駐在している人たちは日本食が恋しいのかな?と慮っていた.今回そのような気分にならないのは,まだこちらに来て日が浅いからか,あるいは,たかが半年の滞在と心のどこかで考えているからか.

タイのローカルフードが大好きだという理由もあるかも.タイ料理だいすき.タイ料理はどれも旨い.

先日,こちらの学生と日本の学生をオンラインで交流させるプログラムにおいて,タイの学生が「バンコクにはしゃぶしゃぶ屋がたくさんある」と発言し,いやそんなのみたことないぞ?と私は反論した.しかし,先ほど買い物に出かけたついでにしゃぶしゃぶ屋を一つ見つけた.たんに私が気付いてないだけだったようだ.

翻って,ラーメン屋はバンコク市内のあちらこちらにある.これはもう身をもって確認済みだし,そのうちの何軒かには実際に行って体験している.

最近は日本でもラーメン一杯の価格高騰が著しいが,こちらのラーメン屋も比較的割高な価格に設定されていることが多い.日本円にして1,500円から2,000円くらいすることもざらにある.こないだ行ったところなんて一杯580バーツもした.ラーメン一杯が3,000円近いって,どういうこと?

それでも,美味しいラーメンがバンコクでも食べられるのはありがたい.8番ラーメンをご存知だろうか.北陸を中心に展開するチェーン店で,調べたら日本にも100店舗出している規模の店である.首都圏には出店していないため日本人でも知らない人は多いが,バンコクに10店舗以上ある.タイ人には馴染みのラーメン屋なのだ.KMITLの学生もよく知っていた.

うちの近くに,その名も牛野家という牛丼屋がある.GYUNOYAである.オレンジ色基調の看板で,もう,まんま,あの有名牛丼チェーンのパクリである.牛野屋ではなく,牛野家であるところにも拘りが垣間見られる.それにしても商標的にどうなのよ……と思いつつ,こんなふざけた,いや,興味深い店には,ぜひとも,偵察に行かねばなるまい.

というわけで行ってきたのだ.牛丼並が180バーツ.味噌汁30バーツに温泉玉子40バーツを付けて合計250バーツ.そこそこのお値段ではある.まあ,日本でも最近は牛丼にオプションいろいろ付けたら1,000円ちかくなるもんなと,物価高騰を嘆きつつ,いただいた.

味はもう,完璧にあそこの牛丼とほぼ同じ.若干,つゆだく気味だったのはご愛嬌.ちょっと肉が硬かったかな.まあ,許容範囲か.きちんと紅生姜もあの容器に入って提供されていた.感心したのは,ご飯である.きちんと,ジャポニカ米,短粒種のコメが使われていたことだ.パラパラとしたタイ米で牛丼出されても,気分,出ないもんなあ.

バンコクに2店舗あるそうなので,牛丼フリークの皆様におかれましては,いかがだろうか.バンコクにお越しの際には,ぜひ,チャレンジしてみていただきたい.

2025年11月27日木曜日

続・イミグレーションに行ってきた(お気楽クルンテープ通信 No. 16)

ビザの種類を変更してもらう申請をするために,チェーンワタナのイミグレーションに行ってきた話の続きである.

こちらが用意した書類に不備はない……つもりである.電光掲示板に30番のアナウンスが光っているブースに入り,自信を持って書類とパスポートを突き出した.担当はみたところ30デコボコの女性だ.怖くないぞ.

いろいろ尋ねられ,KMITLの客員研究員として云々かんぬん,ビザの変更に至る理由をくどくどしく説明させられた.そこに提出した書類読んでよ,書いてあるじゃん,と,心の叫び.しかし,こちらは審査される側である.よけいな口はきかないほうがいい.

ここ,サインが足りないよ,電話番号を書いてね,などなど,書類に追加で記入を求められた.用意した青インクのボールペンで,つつがなく,対応する.

問題が発生したのは,いまのビザに関する確認を求められたときだった.担当官いわく,「いまのビザはe-Visaでしょ?プリントしてある?」えー?聞いてないっす.なんのためのe-Visaなんだろうか.オタオタしていたら,「下の階に行って,プリントアウトしてきて」とつれない指摘が.

いったん引き下がることになり,そそくさと書類をまとめて,ブースから退散する.下の階?知らんがな……と思いつつ,下の階に行く.イミグレーションオフィスは建物の2Fにある.下の階,1Fには喫茶店やらフードコートやらがあるけれどもコピー屋は見当たらないなあと思いつつ,例によってそこらへんの人に聞きながら進んでいくと,奥のほうにコピー屋を発見した.Photo, Copy and Print とある.ここで印刷してもらえそうだ.

コピー屋はかなり賑わっており,人垣ができていた.なんとか人の群れを掻き分け,e-VisaのPDFを格納したてUSBメモリを店員に渡す.プリントアウト5バーツ.印刷してくれたe-VisaのコピーとUSBメモリを返却してもらい,20バーツ札を渡すとお釣りの5バーツが返ってきた.あれ?10バーツは?マイペンライ.まあ,いいことにしよう.

さて,先ほどのブースは後の人の対応で塞がっていたが,その人が出てきたタイミングでスッと入って書類を出す.こういうのは図々しく割り込んだものの勝ち,というか,そういうものだということはすでに学んでいる.e-Visaのプリントアウトを示し,新たにもらったなんだかよくわからない紙に必要事項を記入していたら,次の課題が降りてきた.

それは,電話番号の問題である.

電話番号,日本の電話番号を書いていたら,それではダメだという.タイの電話番号でないといけないそうだ.しかし,こちらはe-SIMでデータ通信オンリーの作戦である.タイの電話番号は持っていない旨を伝えると,再び,「下の階に行ってSIMを買いなさい」との指示が出た.

本日二度めの退散だが,致し方ない.下の階にSIM屋なんてあったかな……と,再び,下の階に降りてくまなく探すと,電気屋を発見した.はたして,そこでSIMを購入できた.70バーツ.350円くらいである.これでいいのか?

再びブースに戻り,先ほど対応してくれたブースの隣が空いたのですかさずそこに割って入る.担当が違うが,なんとかなるだろう.今度の担当はベテランそうなオバちゃんであった.

書類を全て渡す.番号もいま買ってきたタイのものに書き換えた.先ほど担当してくれた担当官が,一言二言,引き継ぎしてくれたのも助かった.ああ,これでOKか,と思いきや,今度は「KMITLに電話を掛けろ」という.

SIMは購入したものの,入れ替えていない.モタモタしていたら,向こうが勝手に,書類に記載されていたKMITLの電話番号に電話を掛けていた.タイ語でやりとりしていたので何を話していたかはわからない.ときおり,チャーイ,チャーイと言っているのは分かった.日本語で言うところの,そうそう,あるいは,中国語のトェトェトェ,というやつである.

そのあと電話番号の確認があり,SIMを入れ替えて所定の電話番号に掛けさせられた.電話番号がテキトーなものではないことの確認らしい.けっこう念が入っている.まあ,そうか.

ここまでで手続きが終了,2,000バーツ払って,終わりとなった.後日,指定された日に来いとのこと.それまでに審査の手続きを進めておくから,そこでパスポートにスタンプを押してもらえ,ということらしい.念のため確認だけど……とおそるおそる聞いてみると,どうも指定された日でないといけないとのこと.今回,指定された日はたまたま大丈夫そうな日程だったので助かったが,出張中で不在とかだったらどうすれんだろう.変更して?などと融通は効くのかなあ.効かなそうだけど.

せっかくイミグレーションまで足を運んだので,ついでにリエントリー・パーミッションの申請もした.来週,フィリピンに出張するからである.これを申請しておかないと,出国したその時点でビザが無効になってしまう.スワンナプーム空港でもできるらしいが,来週の出国が早朝なので慌ただしかろうと,念のため.

こちらは「あんた日本人ならこれ要らないかもよ?」とアドバイスめいたものがあったくらいで滞りなく進んだのだが,やはりe-Visaでひと悶着.ただし,印刷してこいとは言われず,PCの画面に出して「ほら,これ」と見せたら,担当官がスマホでその写真を撮って,それでOKだった.マイペンライ.

ここまででほぼ午前中が潰れた.かなり神経を消耗した.お昼に1Fのフードコートでいただいたビリヤニが旨かった.60バーツ.少し早めのランチにそれを食べて,なんとか生き返った.

2025年11月26日水曜日

イミグレーションに行ってきた(お気楽クルンテープ通信 No. 15)

外国人の長期滞在に欠かせないもの,それはビザである.タイの場合,日本人であれば60日まではビザなしで滞在できる.しかし,ビザなしで入出国を繰り返していると,それはビザランという不正行為と見做される可能性があり,最悪の場合,入国できなくなる.

そんな憂き目に遭っても困るので,やはり,ちゃんとしたビザを得ておきたいもの.今回,こちらに来る前に慌しかったこともあり,手軽なツーリストビザを取得してやって来ていた.現在,タイはe-Visaの制度が整っていて,オンラインでのやりとりでビザを取得できる.ただし,書類の不備があると何度かやりとりしなければならないので,時間に余裕をもって取得すべきではある.今回,取得が容易なツーリストビザとはいえ入国ギリギリに取得できて,綱渡りの気分を味わった.

それはともかくとして,こちらに来てから考えればいいかとタカを括っていたのだが,やはりツーリストビザではいろいろと不都合がある.まず,そもそも厳密にいえば滞在の目的に合致していない.不適切と指摘されたらアウトになりかねない.さらに,銀行口座を作れないなどの実務的な問題もある.銀行口座は,ツーリストビザでは作れない.

ツーリストビザが切れるタイミングで一時帰国し,次にくるときに適切なビザを取ればよいかな?などと気楽に考えていたが,紆余曲折あり,今回,Non Immigrant RS(研究者向けビザ)への変更が必要ということになった.

KMITLのスタッフが気を利かせて,ビザタイプ変更の書類を用意してくれた.T.M. 86というビザ変更の書類,パスポートのコピー,4x6cmの写真,大学からの招聘上のコピー,大学からのビザタイプ変更に関する書類,T.M. 30というタイ国内の居住に関する書類,ビザの変更には,これらが必要が必要になる.なお,T.M. 30は住んでいるところの大家が用意するもので,こちらもすでに入手済みである.

大学が用意してくれた書類やこちらで用意した写真,パスポートのコピーを引っ提げて,いざ,イミグレーションへ!ということで,今日は朝からチェーンワタナにあるイミグレーションまで出かけてきた.なお,パスポートのコピーは,プロフィールが記載されているページと,最新の入国スタンプがあるページの2枚を用意しなければならない.さらに,それぞれのコピーには空いている場所にサインが必要だった.

さて,そもそもチェーンワタナのイミグレーションは市内からけっこう遠くのはずれにある.ドンムアン空港の手前から少し西にいったあたりで,モノレールのピンクラインにあるGovermnent Complex駅が最寄駅だろう.といっても,そこから歩く人はあまりいないようだった.朝でさほど暑くなかったし,歩いてもせいぜい1kmくらいなので行きは歩いたが,私の他に歩いて向かっている人はいないようだった.帰りはタクシーを使った.

Googleマップで位置を確認し,事前の調査で建物の写真は見ていたので,イミグレーションの入っている建物まではすんなり到着できた.しかし,建物自体がもうだだっ広いビルで,どこに行けばよいのかさっぱりわからない.入り口の案内や何やらとにかく人に聞きまくりで,なんとかしかるべきオフィスに到達した.イミグレーションのオフィスは2Fの南端にある.

入り口の案内でCカウンターに行けと言われ,進んでいくとチケットカウンターで順番待ちの整理券を取れと言われ,とにかくRPG感が半端じゃない.他人に聞く,コミュニケーション能力が問われるなーと何度思ったことか.あと,拒否されてもめげずに,なんとか必要な情報を聞き出すメンタルの強さも要るかも.

ところで,イミグレーションのオフィスは8:30から開いている.思っていた以上に遠かったことと,人に質問しながらあっち行ったりこっち行ったりしていたので,オフィスに着いたころには9時を回っていた.この時点でもらったチケットの番号は46番.処理が進んでいたのは20番前後だった.案内されたC1のブースは4つあった.なお,平日だというのにイミグレーションのオフィスはかなり混雑していた.それだけ,タイにもたくさんの外国人が滞在しているということだろう.

意外と回転は早く,30分も待てば順番が来るかなあなどとボーッと待っていたら,「時間がなくてもう行かなきゃならないから」と,30番のチケットを持ったお姉さんが順番を譲ってくれた.ちょっとした棚ボタである.お姉さん,人生もっと計画的に生きたほうがいいんじゃない?と思いつつも,ありがたく受け取った.

というわけで,いよいよビザ変更の手続きに入ることになったのだが,長くなったので,続きは次回

写真はプロンポンのBic Cameraで撮ってもらった証明写真.180バーツで12枚入っていた.12枚も要らないよ.せめて90バーツで半分にしてもらえないかな.60バーツで4枚でも十分だ.撮影料,作業量込みということであれば100バーツで4枚でもいい.

2025年11月23日日曜日

ノートブックを買いに(お気楽クルンテープ通信 No. 14)

長いこと日記を綴っている.2007年から途絶えることなく続けている.かなりの期間,日々のちょっとした出来事を書き留めてきたことになる.日記帳というたいしたものは使っておらず,大学ノートにボールペンで書き殴るという簡素なものである.しかし,半年に一冊のペースでノートを書き潰しているので,それなりの量の記録が溜まっている.東京の本棚には,すでに30冊を超える記録が残されている.

使い続けているノートはコクヨのキャンパスノート,A罫の7ミリ,30枚というこだわりがある.代々同じブランドを使い続けているのでこれまでの記録を並べるとそれなりに圧巻である.ピンク基調のノートだ.馴染みのひとも多かろう.途中でデザインが切り替わったので,本棚に並んでいるのを遠目にみると,二色,ツートーンにみえる.

今回,うっかりして予備のノートを持ってきそびれた.買い溜めしてあるのに.いま使っているノート,最後のページに到達するのは12月に入ったころになりそうで,12月中旬に一時帰国する予定なのだがどうも間に合いそうにない.

バンコク一番の文房具屋がサイアムのセントラルワールドに入っているとの情報を得て,週末,わざわざコクヨのノートを買い求めに訪れてみた.その文房具屋の店名はB2Sという.サイアム以外にエカマイやオンヌットのほうにもあるらしい.しかし,せっかくなら一番大きな店に行ってみたくなるものである.エカマイなら頑張れば歩いてでも行けるが,わざわざBTSに乗ってサイアムまで出かけてみた.

今回の買い物の目的はもう一つある.ノートの他に,青色インキのボールペンを買い求めることだ.タイでは,公的な書類には青色の筆記具で記入するのが正式だとどこかに書いてあった.黒でも叱られたり無効になったりするようなことはないらしいが,せっかくならタイ流でいきたい.来週,イミグレーションに行ってビザの手続きをしなければならないので,青インクのボールペンが要るのだ.

サイアムのセントラルワールドは巨大なショッピングモールである.B2Sは4Fの北側,BTSの駅から向かうと奥のほうにあった.ノートのコーナーを探してみると,はたして,コクヨのノートがたくさん並んでいる.ところが,残念ながらいつも使用しているA罫30枚ピンクのノートは置かれていなかった.うーん残念.

似たようなデザインのものがあったので,それで我慢することにしよう.コクヨのキャンパスノート,A罫30枚というスペックはほぼ同じだったので.

一方の青ボールペンは希望のものが見つかった.それも,いつも使っているSARASAの0.7ミリ.これはもう完璧である.

というわけで,そのノートとボールペンを購入した.

時間があったこともあり,せっかくバンコクの中心部まで出かけたのだからと,B2Sのなかを少し物色してみた.面白かったのはこれ(写真).全てタイ語で書かれているので初見では何のフォームなのかわからなかったのだが,カーボンの複写式で空欄を埋めればよいだけの書類である.

最近は,スマホのカメラで撮れば文字の部分を翻訳してくれる.便利な時代になったものだ.表紙の写真を撮って機械翻訳を試してみたら,「貸付契約書,内蔵カーボンタイプ」だとか.その下には「ボールペンで使用してください.カルボニル紙セットごとにイアンパッドがあります.正確で標準的」とある.カルボニル紙というのはカーボン紙のことだろう.イアンパッドって何の誤訳かな.

その他にも,かわいいキャラクターのノートや,ファンシー文具など,文房具屋をうろうろしているといろいろ発見があって面白い.

ところで,例によってこの話にも悲しいオチがある.

翌日,天気がよかったので日用品の買い物がてら,我が家の近くを散歩した.プロンポンの駅の反対側に,ザ・日本人街とでも呼べそうな,日本食レストランが多数並ぶソイがある.ソイというのは路地のことだ.あまりにベタな街並みなので,これまで入り口から覗くだけで入っていくのは遠慮していたのだが,写真屋はないかとその路地に入ってみた.

短いソイの並びにラーメン屋を3軒も見つけたのは意外な発見だった.それはともかく,ソイの奥にタイ在住の日本人には有名な富士スーパーというスーパーマーケットがある.富士スーパーにも入ったことがなかったので,覗いてみることにした.

富士スーパー,時間帯にもよるだろうが,日曜日の昼下がり,客層はほぼ日本人であった.店の作りも,もう日本のそれとほとんど変わらない.一気に東京にワープした気分になる.惣菜コーナーも充実していて,さほど高くない.うーん,ここまで買いにくるかなあ.そんなことを考えながら,そういえばノート売ってるかなと文具コーナーを覗いてみたら…….

懸命な皆さんはもうお察しだろう.そう,いつも使っているコクヨのキャンパスノートA罫30枚が,束になって置いてあったのである.まさに灯台もと暗しとはこのことか.ぎゃふん.

2025年11月21日金曜日

似たような文字が多くて悩ましい問題(お気楽クルンテープ通信 No. 13)

バンコクで生活を始めて1ヶ月が経った.日々の業務をこなしつつも,タイ語の勉強を独学で進めている.まずは書いてある文章を読めるようになるべく,文字を毎日一つずつ,憶える努力をゆっくりと続けてきた.

タイ語の文字は,子音が44個,母音が32個ある.ただし母音はいくつかの組み合わせで32個として表されているので,憶えなければならない形は若干減る.

しかし,どちらかというと,子音44個のなかに,似たような文字,いや,激似の文字たちがたくさんあるのが曲者なのだ.丸くくるりんとなっている箇所が上を向いているか下を向いているかとか,上がちょこんと欠けているか欠けていないかとか,ぐっと上に向けて払う棒を上まで伸ばすか途中で止めるかとか,ほとんど同じ形なのにチョンとダッシュが追加されているかいないかとか,ビミョーな違いがたくさんある.

日本語にも,「め」と「ぬ」,「れ」と「わ」,あるいはカタカナの「シ」と「ツ」,「ヌ」と「ス」など,微妙な違いはある.それらの違いもなかなかのものだから,外国人がよく間違えているのを笑えない.しかし,タイ語のそれは,もっと微妙な違いが多すぎて,いやはや,憶えるのもけっこうしんどい.

なかなか憶えられないので,頑張って憶えられるようにと暗記帳のアプリまで作ってしまった.作ったアプリはStreamlit Community Cloudというプラットフォームで公開しているので,タイ語の子音を真面目に憶えたい日本人は使ってみてほしい.

アプリは https://thaicharacters.streamlit.app/ で試せる.

文字の読み方を憶えるには,MRTやBTSの駅名表示を追いかけるのがよい.たいがい答えがローマ字で書いてあるので,ローマ字との文字の対応を考えながら一つ一つ,確認できる.

ハングルを勉強したときは,同じようにして街の方向案内標識や距離標識も参考にした.方向案内標識は,右に曲がるとどこ,直進だとそこ,左折すると何々,というような交通案内標識のことで,距離標識とは,どこそこまで何キロという情報を示す標識のことだ.

ハングルはシステマティックに作られており比較的簡単に憶えられるので,ソウルの街中を3日散歩しながらキョロキョロした結果,ほぼ全てのハングルを憶えられた.さらにハングル一文字が漢字一文字に対応していることを考慮しつつ,似たような発音を日本語から探し当てれば,意味を取るのもさほど難しくない.日本人なら韓国語は簡単に読めるようになるので,第三言語の習得対象としてオススメである.

タイ語の場合は写真のような感じになる.母音が上に置かれたり下に置かれたり,はたまた左側に配置されたりするので若干ややこしいが,なんとなく下に書いてあるローマ字との対応はつくようになった.ただし,私のタイ語スキルではまだ不十分なところもあり,なんでローマ字だとそういう読みになるのかが全くわからない部分も,まだ一部,残っている.

このようにすれば,タイ語でも韓国語と同じように,少なくとも文字を「読める」ようにはなるはずだ.もっとも,声調があるので正しく発音できるかどうかが大きな課題として残されている.これは,文字を全て憶えてから,次の段階に進むことにするつもり.

ところで,かつて,交通標識を見て練習しようとしていたときに,こんなことがあった.

郊外のナコンパトムに出かけた帰り道でのこと,高速道路を走るバンの窓から,いつものように距離標識を眺めていた.バンコクに近づくにつれて,「バンコクまで何キロ」との表示が増えてくる.

ローマ字でBangkokと書いてある表示の頻度が増えてきたのだが,どうもおかしい.当時は今よりもまだ文字の判定が覚束なかったが,それにしても,どう考えても,Bangkokの上に書いてあるタイ語をバンコクと読めようがないことくらいは理解できた.

はたして,そこにはバンコクではなく,クルンテープと書いてあったのだ.そう言われてみるとクルンテープと読める.

タイの皆さんはバンコクのことをクルンテープと呼ぶ.日本人が自国のことをジャパンと呼ばずニホンないしはニッポンと呼ぶようなものか.このクルンテープ,正式には,クルンテープ・マハナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシットという.想像の遥か斜め上を超えて,長い.

それはともかくとして,まさに,私が編み出した交通案内標識ローマ字確認メソッドが敗れた瞬間であった.

2025年11月19日水曜日

タイの交通事情(お気楽クルンテープ通信 No. 12)

先週の木曜日から週末にかけて,タイ最北部に位置するチェンライに出張してきた.Thai Association for Applied Linguistics (TAAL)という学会に参加し,我々がやっているプロジェクトを報告するためである.

しかし,そもそも私のバックグラウンドとは全く異なる学会で,完全なる他流試合である.さらに,この学会は今回が2回目というまだ始まったばかりの学会,タイ人ばかりなのかなと思いきや,中国やフィリピンなど,けっこう近隣諸国からの参加者がいたのには驚いた.欧米人もちらほら.日本から参加した日本人は私以外にいたのかな.日本からの参加者といえば,たまたま,東京大学で英語を教えているS先生と昼食をともにした.ただし,彼はイギリス人.

さて,学会の会場はチェンライもさらに北の外れにあるメーファールアン大学だった.チェンライ市内から続く国道を30分ほど北上する.国道に面した入口の信号を右折,森の中に延々と続く緩やかなカーブをしばらく進むと,立派な広場と建物がどーんと現れる.1998年に設立された大学だそうで,比較的,新しく美しいキャンパスだ.現代的な建物が並んでいる.

郊外型の大学で開催される学会で困るのは,そこに行くまでの足をどうやって確保するか.レンタカーを借りるというのは一つのよい解ではあるが,今回,出国前が慌ただしかったせいで国際免許を取ってこられなかった.最近はGrabなる便利な配車サービスもあるが,タクシーみたいなものだから,毎度毎度Grabというのも気が引ける.

たまたま,今回は,同じプロジェクトに参加している,ナコンパトム在住のT先生もその学会で発表した.彼は自宅からチェンライまで車で来ていたので,毎朝,チェンライ市内のホテルに宿泊している私をピックアップしてくださった.ありがたい限りである.

実はこれまでにも何度か彼の車に乗せてもらったことがあり,いぶし銀……といえば聞こえはよいが,かなりの年季が入った骨董品,つまり相当に古い,まあ,よく動いているなというシロモノであった.ところが今回,さっそうと現れたのは新車のピックアップトラック.実にかっこいい車で,助手席に乗ったら新車の匂いがした.

そんなおニューの車で聞いた,タイの交通事情をいくつか紹介しよう.

チェンライに着いたその日の夜は,彼に誘われて近郊のレストランで夕食を共にした.そのレストランまで車に乗っていき,駐車場がいっぱいだったので路上駐車することになった.路肩をみると,赤と白の縞模様になっているところと,黒と白の縞模様になっているところがある.

黒と白の縞模様になっているところに車を停めた彼は,ここは駐車してよいゾーンなのだと説明した.赤と白は駐車禁止のエリアで,黒と白は駐車可,なんだそうだ.なお,ホテルの玄関あたりは黄色と白の縞模様だった.その意味を聞きそびれたのであとで調べてみたところによれば,黄色と白は,荷物の積み下ろしのための停車は可,というものらしい.

タイは日本と同じ右側通行なので,レンタカーを借りてドライブするのも楽そうに思える.ただし,バンコク市内は渋滞がひどいので,難易度は少し高そうだ.東京で外国人が運転するのは難しい,とくに首都高は難しいだろうな,というのと同じかも.

赤信号でも右から車が来ていなければ左折してよいというのも教えてもらった.これは米国と同じルールである.米国は逆方向だけれども.日本では「左折可」の標識があるところのみ,左折できる.どこでも左折可にしておいて,危なそうなところだけ左折禁止にしたほうが合理的だと私は考えるが,日本は安全側に倒しすぎるきらいがある.

タイでもグローバル化が進んでいるので,メルセデスやらBMWやら,外国からの輸入車はけっこう走っている.バンコク市内ではときおりポルシェも見かける.こないだはフェラーリだかなんだか,めちゃくちゃ高価そうな車を見かけた.T先生いわく,これらの外車には関税が300パーセント掛けられているそうだ.もともと高価なのに.タイも格差社会なのだろうか.お金持ちはどこにもいるなあ.

一方,街には日本車,とくにトヨタが溢れている.トヨタだってタイからみれば外車じゃないのか?そう,外車である.しかし,これらの車には300パーセントという法外な関税は掛けられていないので,安く購入できる.なぜか.それは,こちらに大きな工場があって,タイ国内で生産されているからである.

また,ベトナムの街ほどではないが,バイク,スクーターもぶんぶん走っている.しかも,かなりの確率でノーヘルライダーを見かける.ベトナムでは2007年にヘルメットが義務化されたが,タイはまだよいようだ.マイペンライ.写真はチェンライ郊外で見かけたノーヘルライダーズの二人乗り.KMITLの学内でも,学生たちが似たような様子で走り回っている.

2025年11月16日日曜日

Geminiとの対話

SNSを見ていたら,スマホでテキトーな自撮り写真をGeminiに投げて「高級感あるポートレートにして」というとカッコいい写真に仕上げてくれるよ!という投稿を見た.へー,さっそくやってみよう,と,いろいろ試行錯誤した結果が以下である.コメントはしないので,対話の様子を味わっていただきたい.最後びっくりするよ.
























2025年11月11日火曜日

続々・散髪してきた(お気楽クルンテープ通信 No. 11)

スクンビットに散髪に行った話を書きたかったのに,昔話を長々と引っ張ってしまった.二度めの海外での散髪体験は,1998年,米国,ニューメキシコ州のサンタフェに滞在したときのことである.

当時,世間では,複雑系,Complex Systemsという理論が,なんとなく流行っていた.映画ジュラシックパークでジェフ・ゴールドブラムが演じる数学者,イアン・マルコムの研究テーマがカオスだったことをご記憶の方もいらっしゃるだろう.香港で蝶々が舞うとアメリカで原発事故が起こるという,壮大な「風が吹けば桶屋が儲かる」理論たるバタフライ効果というキーワードを耳にしたことがある方も多いに違いない.

その複雑系の総本山と呼ばれていた組織が,サンタフェにある,サンタフェ研究所である.そしてサンタフェ研究所が複雑系のサマースクール,Complex Systems Summer School(以下,CSSS)と題した研修を実施するニュースを耳にした当時の私は,会社を騙くらかして,もとい,当時勤めていた会社には中島奨学金という素晴らしい制度があったので,それを利用してCSSSに参加することになったのだ.

98年のCSSSには,世界15カ国から,多くの参加者が集まっていた.今から思い返すと,夢のようなひと月だった.当時,私とタッグを組んで研究レポートを仕上げた盟友ともいえるDくん,彼は地元からの参加者だったが,今ではコロラド大学の立派な教授になっている.懐かしい想い出である.

CSSSはサンタフェ大学で実施されたので,大学の寮に寝泊まりして参加することになった.カフェテリアの食事は美味しかった.標高2,000メートルという内陸の高地ゆえに空気が乾燥していて鼻血がよく出た.リオグランデ川やロッキー山脈など,ちょっと郊外に出ると壮大なスケールの自然に恵まれたとても美しい場所だった.プエブロの文化が残っていて今でいう多様性の先端をいっていた.このときの想い出もたくさんあるが,壮大な脱線話はすでに散々してしまったので,またの機会にということにしよう.

散髪の話題である.

ひと月あまり滞在していれば,当然,髪は伸びる.鬱陶しくなってきた私は,キャンパスの隣にあるショッピングモールに入っていた床屋で髪を切ってもらった.このときのやりとりはほとんど覚えていない.おぼつかない英会話でも,きちんと髪を切ってもらえてよかったな,くらいにしか印象が残っていないのは残念である.

ところで,サンタフェ大学は2009年に経営破綻し,その後,サンタフェ芸術デザイン大学として再建された.ところが,2018年に再び財政難で閉校の憂き目にあっているらしい.しかしながら,当時のキャンパスはまだそのまま残っていて,Googleマップによれば,政府機関などが入っているようだ.ただし,あのとき髪を切ってもらった床屋は特定できなかった.残念.

なお,サンタフェといえば,篠山紀信が宮沢りえを撮影した写真集「Santa Fe」を思い出す方も多かろう.当時,度肝を抜かれたものだ.ひと月も休んで海外の研修に送り出してくれた上司や先輩方からは,「あの扉を探してこい」と命令されていた.週末の休みにはダウンタウンへ繰り出していろいろと遊んでいたのだが,さすがにあの扉は見つけられなかった.聞くところによれば豊島園に貸し出されていたとか,いなかったとか.

さて,昔話をぐだぐだと続けてきてしまった.やっと,バンコクの話題に移る.ここまで長かった.すまぬ.

とにかく伸び放題の髪がうっとうしかったので,安くて外国人でも入りやすい床屋がスクンビットにある,という情報を事前に仕入れていた.一時期に日本から千円カットの進出していたが撤退し,その後は地元資本の床屋として残った店があるとのこと.千円カットを受け継いでいるので,カット代は200バーツ,千円くらい.そして外国人の多いスクンビット地区なので,英語も通じるんだと.

さすがに,タイ語しか通じない床屋で髪を切ってもらう勇気はまだない.なので,日曜日の午後,散歩がてらスクンビットまでふらふらと歩いて,散髪してもらいに出かけた.

スクンビットの地下街,メトロモールにその店はあるとの情報だけを頼りに,探してみたら,床屋があった.しかし,名前がなんだか違う.カット代は500バーツとある.あれー?調べた情報と違うぞ.

迷っていても仕方がないので,まあいいかと,意を決して入ってみた.ちなみに,調べた店の名は「Easy Cut」.見つけた店は「Limit Cut」.オープン時間も情報では9時からやっているはずだが,この店のオープンは11時からとなっている.朧げな記憶のなかでは,そうだったっけかなあ?くらいに感じる微妙な違い.

以下,やりとりは全て英語である.

予約があるかどうか聞かれたので,「ない」と胸を張って答える.でもすぐにやってくれるらしく,椅子に座れと促された.

待っているとしばらくして若いお兄ちゃんがやってきた.「今日はどうしますかー」みたいなことを尋ねられるので,「周りはトリムしてね」と答えた.ちなみに日本語の「刈り上げ」は英語でトリム(trim)という.トリミングのトリムである.学校で習う?習わないよね.でも生活では大事な単語だ.他にも「洗剤」とかね.ディタージェン(detergent)って学校で習った記憶がない.私はサンタフェの寮生活で教えてもらった.まあ,それはともかくとして,そのとき,謎のワードが出てきて,私は固まってしまった.

彼は,「No. 1?No. 2?」と尋ねてきたのだ.なにそれー?

ジェスチャーから察するに,バリカンの深さを問うているようにみえる.No. 1のほうが長めのような手振りをしているので,じゃあNo. 1で,と答えたのだが.

帰宅してから調べてみたところによれば,タイでは,No. 1から順番に番号が大きくなるほど長めに揃える,その長さ具合を番号で示すということらしい.No. 1は3ミリ,No. 2は6ミリのバリカンなんだとか.違うじゃん.

まあ,結果オーライ.さっぱり整えてくれたのでヨシとしよう.500バーツ取るだけあって,仕事もかなり丁寧だった.千円カットではやってくれない産毛剃りもしてくれた.千円カットと比べて倍以上の値段,といってもたかがしれているが,久しぶりのきちんとした理髪店で,代金に見合うサービスだったと満足である.

Easy Cutを探す楽しみは残されているが,次もまたここに来ようかな.

2025年11月10日月曜日

続・散髪してきた(お気楽クルンテープ通信 No. 10)

ジプシーの被害にあったOくんたちを警察に残して,勝手に床屋に来たという話の続きである.

ふらっと入ったその床屋は,日本でもよくありがちな,家族経営の,いかにも街の床屋さんといった風情の店だった.ドアを開けると,店のお母さんが出迎えてくれた.以下,カタコトのフランス語を交えての,基本的には英語でのやり取りである.

言葉でのコミュニケーションがおぼつかないため,最初はヘアカタログを見せられながら,指差し確認しつつのボディランゲージ混じりで,どうする?こうする?というやりとりをしたかな.そのあたりの詳細はもう覚えていない.しかし,「お父さんが上でランチを摂っているから,終わったらお父さんに髪を切ってもらいなさい」とお母さんに指示され,ちんまりとソファに座って旦那さんが階段から降りてくるのを待っていたシーンは記憶に残っている.

やがて旦那さんが2階から降りてきて,髪を切ってくれた.どこから来たんだ?日本?ずいぶん遠いところから来たね.そんな話をしたような気がする.

面白かったのは,ここから.

こんなマルセイユの片隅にある家族経営の床屋に,東洋人なんかがふらっと入ってきたなんて,これまでそんなことはなかったのだろう.洋の東西を問わず,噂はすぐに広がるものである.なんか変なやつが来てるぞ?と,近所の人々が集まり出したのだ.

と同時に,店のなかでは,お父さんによるフランス語講座が始まっていた.ボンジュールから始まって,簡単な挨拶など.大学の1, 2年次に教養の第二外国語でフランス語を習っていたので,こちらも多少はわかる.なんとなくいいテンポで,髪を切りながらのフランス語講座は続く.

そこに近所のマダムがやってきた.

お父さん:挨拶しなさい 
私:メルシー
お父さん:ノンノン,「メルシー,マダーム」だ 
私:メルシー,マダーム
お父さん:トレビアン!

こんな調子である.

また,その床屋には年頃の娘さんが二人いた.当時の私とちょうど同世代,少し下かな?というところ.姉がアニエスで妹がソフィー.コケティッシュな顔だちのアニエスと,往年のソフィー・マルソーを彷彿とさせる美貌のソフィー.どちらも可愛らしい姉妹だった.

お父さんが,「うちの娘たちは東洋に行ったことがない.日本に連れていってくれないか?」と冗談を飛ばしてきた.どちらも可愛らしいのだが,どちらかというとソフィーがキュートだと思った私,しかし,妹がいいとダイレクトに伝えると,後々,家庭争議のもとになりかねないのではと,まったくもって余計な忖度をした末に,私はなんと答えたか.

「どっちも可愛いんだけど,選べないから両方と結婚させてもらえないか?」

もちろんお父さんの答えが強い口調で「ノン!」だったことは語るまでもなかろう.

時は飛び,2007年にマルセイユに出張する機会があった.たまたま週末を挟んでいたので,日曜日,忙しい出張スケジュールのなかで珍しくゆっくりできた私は,「そういえばあの床屋,まだあるかなあ?」と,当時の朧げな記憶を辿りつつ,たしかこのへんだったよなと探してみた.

結論からいうと,床屋は見つからなかった.店を畳んでしまったのかもしれない.私の記憶が曖昧すぎたのかもしれない.たしかカステラーヌという広場から斜めの路地を入っていったところだったはずだが,いくら探してもなかった.

ソフィーとアニエスはいまどうしているだろう.会わないほうが幸せということもある.なにしろ記憶のなかの彼女らは,フランス人形のように可愛らしいのだから.

想い出を語り過ぎて,なかなか二度めの散髪に至らない.海外で体験した二度めの散髪と,スクンビットでの散髪の話は,次回に続く

今日の写真は,スーパーで見かけた日本酒.「獺祭」を売っていた.けっこういいお値段しますなあ.一本,8千円弱といったところ.

2025年11月9日日曜日

散髪してきた(お気楽クルンテープ通信 No. 9)

日本を出たときからずっと気になっていたことがあった.髪が伸びて鬱陶しいのだ.散髪に行きたい.髪を切ってもらいたい.

こちらに来る前に散髪してくればよかったのだが,いろいろと忙しく,心に余裕がなかったので床屋に行けなかった.髪が鬱陶しいなあという気分を引きずったまま,もう3週間も過ぎてしまった.

というわけで,今日は,日曜日で休日ということもあり,散髪に出かけた.

海外で髪を切ってもらったのは,これまでに二度ある.今回で三度めである.最初の経験は,1994年,初めて海外旅行に行ったときのこと,南仏はマルセイユで,床屋を訪れた.

修士課程を終え,社会人になる直前の春休み,卒業旅行という名目で友人たちと5人でヨーロッパを訪れた.行きと帰りの航空券,最初に訪れるパリの宿だけを手配し,あとは次の街へ移動してからインフォメーションで宿を探すという,気ままな行き当たりばったりの旅行だった.「俺はどこそこに行きたいから」というメンバーがいれば,「じゃあ三日後の何時にどこそこ駅の中央改札前で集合ね」と,トマスクックの時刻表に掲載されていた主要駅の構内図を指し示しながら,別れたり合流したりという,いかにも学生の旅らしいとても自由な旅だった.

今から思えば,インターネットはあったもののまだ一般には普及しておらず,また,スマートフォンなどない時代,現代のように情報に簡単にアクセスなどできない時代だった.ましてや気軽にAIに頼るなど想像すらしなかった時代.そんな状況で,よくもまあきちんとしかるべき時間と場所で落ち合えたと感心する.

という意見をいつぞやの忘年会のときに懐かしいねなどと言いながら開陳したところ,「俺はいつも待ってたけどね」と某Iくん.待たせたほうは,そんなことはついぞ忘れているというご都合主義であった.

それはともかくとして,そんな旅の途中,パリからTGVで移動してきたマルセイユで,散髪に行った.

今でもしっかりと覚えているのは,その日が火曜日だったということだ.なぜ覚えているかというと,実はその前日にも床屋に行こうとしていたが,月曜日で休みだったのである.ああ,日本と同じで月曜日が休みなのか,と残念な思いをしたことを覚えている.

それで,火曜日に散髪に行ったわけだが,訪れたのはちょうどお昼時であった.それにはこんな経緯がある.

その日,観光に出かけようとホテルを出た我々は,朝から思いもよらない災難に襲われた.同行の友人Oくんが,路上でジプシーに襲われたのである.集団で寄ってきたジプシーの子供達が新聞紙で周りを囲み,あたふたしているすきにウエストポーチに入れておいた貴重品をごっそり盗まれるという典型的な手口だった.

犯行後,彼ら彼女らは散り散りに逃げていく.ほうほうのていで一人捕まえた女の子は,私は何も持っていないとばかり,着ていた服を全て脱ぎ捨て,パンツ一丁になって両手を挙げて路上で突っ立っている.女の子とはいえ少女から大人になりかけで,学校に通っていたとしたら中学生くらいだろうか,見ているこちらが目のやり場に困ってしまう.

その後,その場でどうしたかは忘れてしまったのだが,のちに警察で事情徴収をされたときに,我々,目撃者は「14歳(fourteen)くらい」と全員が主張したが,動転おさまらぬOくんは「いや40(fourty)だ」と主張して憚らないシーンがあった,などというしょうもないことはなぜだかくっきりと覚えている.

財布やらクレジットカードやら大切なものを盗られてしまったので,意気消沈するOくんをなだめすかしつつ,「とにかく警察に行こう」ということになった.何時頃訪れたかは正確には覚えていないが,午前中,窓口に行き事情を話していろいろと調書を取られた.そして,11時を過ぎたころだろうか.「じゃあ,今からランチタイムだから.続きは午後ね」と,手続きはまだ終わっていないにも関わらず強制的に昼休憩に入ってしまったのである.ラテンの気質だなあ,と感心している場合じゃない.こちらは犯罪の被害者なんだぞ?

まったく,どうしようもない.我々は,ロビーで呆然と待つしかなかった.そのときに,ふと閃いてしまったのである.「じゃあ俺,ちょっと散髪に行ってくるわ」と.いやはや,酷いやつもいたもんだ.警察に残された皆,とくに被害者のOくんには申し訳なかった.この場を借りて,深く陳謝します.ごめんなさい.

まあ,そんなわけで,昼休憩の時間に,前日にあたりをつけておいた床屋に向かっていったというわけである.長くなってしまったので,次回に続く

写真は「年賀状の写真に使いたいからタイっぽい自撮り写真を撮って送って」と家からのリクエストで撮影した写真の一つ.タイっぽいかな?

2025年11月8日土曜日

水にまつわるお話(お気楽クルンテープ通信 No. 8)

異文化の社会で暮らしていると,生活のなかの些細な出来事で日本のそれとは勝手が違い,戸惑うことがある.そんなちょっとした体験談を紹介したい.

まず,水のペットボトル,スーパーで買ってきた2リットルのペットボトルである.次の写真をじっくり眺めてみてほしい.何か気付かないだろうか?

注目してほしいのは,キャップの部分である.よくみると,半分濡れていることがわかるだろう.そう,水がギリギリまで並々と詰められており,溢れんばかりの状態になっているのだ.これを知らず,日本や欧米諸国でのそれのように,少しゆとりをもって水が入れられているつもりでキャップを開けると,まず,こぼす.そして最初にコップに注ぐときがとても難しい.わかっていても,たいがい,こぼす.

この銘柄だけでなく,他の2リットルの水を買ってきても同じだった.とにかく詰められるだけ詰めようという強い主張が感じられる.

短期の出張や旅行だと,小さなペットボトルに入った水がホテルの部屋でサービスとして提供されることが多い.そのてのペットボトルでも,ここタイでは,ギリギリまで水が詰められているようだ.いままでタイに来て何度かホテルの水は飲んだ経験があるけれど,ペットボトルの口ギリギリまで水が入れられているかどうかを,あまり気にしたことがなかったな.

小さなペットボトルは扱いが比較的簡単だが,大きなペットボトルは最初に水を注ぐときに細心の注意を払わないと,こぼしてしまう.私はそれになかなか慣れなかった.なので,何回か,こぼした.

それどころか,最近はもう慣れたけれども,わかっているくせに,こぼしてしまう.どうしたものだろう.

いずれにしても,タイ人なりのサービス精神なのだろうか.タイでは水のペットボトルに水が目一杯詰められていることに気をつけよう.これを知っておけば,水をこぼして難儀することもない.

次の話題は,コンビニでのひとコマである.

これまたわかりにくくて恐縮だが,次の写真には,日本のコンビニのレジカウンターには無いものが一つ,映っている.わかるかな?

ストローや爪楊枝のようなものに囲まれている中に,白い柄のようなものが見えるだろう.これは何かというと,栓抜きである.

日本では王冠で蓋をした瓶飲料を扱う機会が激減した.いま日常的に栓抜きを使って開けるものといえば,居酒屋の瓶ビールくらいだろうか.しかし,ここタイではまだ瓶飲料も多く流通している.

日本で私はガス入りの水をよく飲んでいたので,引っ越し直後にスーパーに買い求めに行った.ところが,ペットボトルで販売しているそれは,ペリエだのサンペレグリノだの,輸入品の高級なものしかない.一方,シンハーが出している庶民向けの炭酸水があるのだが,瓶なのだ.そして我が家にはまだ栓抜きがない.なので,手を出しあぐねているというところである.

今回こちらに来るにあたり,日用品を忘れずに持ってこようと気にしてはいたものの,さすがに栓抜きは気付かなかった.爪切りは必要だろうとしつこく考えていたら,スーツケースのなかに一つ,ショルダーバッグのなかに一つと,二つも持ってきてしまった.しかし,耳かきを持ってくるのを忘れた.栓抜きも,持ってこなかった.なかなか難しいものである.

話がおおいに脱線してしまったので元に戻そう.コンビニのレジカウンターに,栓抜きが置いてあった話である.

コンビニでレジの列に並んでいたときのこと.隣のレジに並んでいたお兄さんが,瓶飲料を差し出した.会計を済ませた後,彼はその栓抜きを取り上げ,瓶の栓を開けた.ああ,いまここで飲むんだな,と思いきや,すかさず,開けたその王冠で再び蓋をしたのである.

あまつさえ,蓋をしたその瓶をポケットに入れて,颯爽と去っていった.そういう使い方するんだ!

たしかに,一度,栓抜きで開けた王冠なら,後から手で開けることだってできそうではある.しかし,そんな閉め方して,こぼれたりしないんだろうか.日本だと考えにくい出来事で,ちょっと驚いた.

2025年11月5日水曜日

学生発表会に参加(お気楽クルンテープ通信 No. 7)

今日は朝から学生の発表会に参加した.先日,F先生から「水曜日に学生の発表会やるので,もしよかったら来てねー.いつ来ていつ帰ってもいいから」と言われていた.なんとなく聞きあぐねて何時に始まって何時に終わるかもわからず,とりあえず場所だけ聞いておいたので9時過ぎに行けばええかな?と気軽に考えていたイベントである.

今朝はラカバン駅発8時50分の列車が53分ころに来た.3分遅れ,優秀だなあ,それで,大学に着いたのは9時10分ころ,とりあえず部屋に荷物だけ置いて教室に行ったら,発表会はもう始まっていた.

この学生の発表会とは何か.どうも,3年生が夏から今頃にかけて,提携している企業にインターンに出かけていって,そこで何をしているのか,あるいは,何をしたのかを,先生に報告する発表会ということらしい.

これが,とっても面白かった.入れ替わり立ち替わり,どこそこの企業に出向いてどういう内容をやった.こんなことを学んで,こんな成果が出ました.または,あと1ヶ月でこんなことを実現します.などなど.そんな発表会である.

発表は,皆,タイ語で説明するので細かいところはよくわからない.しかし,テーマや内容はほぼ私の守備範囲である.やれ,UXだのUIだの,あるいはAI応用だシステム開発だ.細かな内容もなんとなく聞いたことのあるような話が多い.

FigmaでデザインしてReactでフロントを実装しました.バックエンドはNode.jsです,CSSはtailwindcss,データベースはMySQLを使っています,云々かんぬん.Streamlitでプロトタイプを実装しました.うんうん,うちの学生も似たようなことやっているよ.どこかで聞いたことがあるキーワードだなあ.それこの前にゼミで学生がコメントしてたやつだっけ,みたいな.

日本にいるうちの学生たちと交流させたいなあ.日本がITで先んじてるなんて自惚れるなよ?タイの学生も頑張っているぞ?いや,こっちの学生たちのほうが,うちの連中より先進的なことやってるんじゃないの?という印象を受けた.交流させたら,とてもいい刺激になるのではなかろうか.

なにより,私が参加することが事前に知らされていたのかどうかは知らないが,資料が英語基調で作られていたので理解しやすかった.といっても,スライドのタイトルが英語で書かれているとか,その程度だが.しかし,IT系なのでキーワードは全て英語である.図版やプログラミングのコード例などはそのまま見て分かるので,タイ語のプレゼンテーションであっても,なんとなく,「何をやったのか」くらいは問題なく理解できる.

そして,学生たちは,ほぼ全員,発表が終わったタイミングでF先生ほかの指導教員に促され,英語での簡単な説明を私に対して追加してくれたのである.しかも,それを受けて私がコメントしたり質問したり,質疑応答も英語で問題なく進んだ.これには驚いた.結果として,私は「ひとことコメント係」という役割を担わされることになったのだが,まあ,それは,マイペンライ.

皆さん,発表する内容がかなりしっかりしていて素晴らしいなあと印象的だったものの,HDMIの接続で「画面が出ません」なんて基本的なところでトラブってたりして,それは日本の学生も似たようなものなので,こういうところに改善の余地が残されているんだなあなどと変なところで感心するひとコマもあった.ちょっとほっこりする話ではある.

発表スライドのなかで,提案するシステムをテストしているときのユーザー名として「hisoka morrow」と付けていた事例を見付けた.そういうの,見逃さないぞ?なんとなくそのキーワードが頭にひっかかったので,検索してみたら「HUNTER×HUNTER」の登場人物なのね.さすがJapanese Manga.グローバルに人気ですね.でも,なんでその名前覚えてたんだろう.「HUNTER×HUNTER」なんて読んだことないのに.自分でもよくわからない.

最後,次の写真は,発表していた学生さんのPCである.日本でもPCにシールを貼るエンジニアの皆さんはよく見かけるが,これはさすがにやりすぎじゃないの?

2025年11月3日月曜日

通勤事情(お気楽クルンテープ通信 No. 6)

なんだかんだ言ってKMITLにきちんと通勤するのは今週からだったりするわけで,まあ,先週まではこっちでの生活基盤を整えていたといえばカッコいいけれども,実態は,なんとなく漂うままに流されていたらこうなった,という感じではある.東京から持ってきた宿題が山のようにあって,それを片付けるのに必死だったせいでもある.

いずれにしてもKMITLで私のホスト役であるF先生と今日,ミーティングする予定になっていて,でも時間が決まっていなかったので「今日は朝から夕方までKMITLで仕事している予定だからいつでもいいよー」とメッセージを送っておいたのだが返事がない.それで,今朝,少し遅れたかなと9時過ぎに研究室に行ったら,いたよ.F先生が.先に来てた.

もう,なんか全てがこんな感じで,一言でいうとマイペンライなわけだが,こいうテキトーさ加減というか,ゆるさが素晴らしい.もう日本には戻れない.そんなことないか.

さて,今回は私の通勤事情について少し語ってみたい.すでに説明したようにバンコク市内のわりと中心部に近いプロンポンというエリアに居を構え,ここから郊外のKMITLに通っている.日本でもいろいろな路線を使って移動できるように,その通勤手段にはいくつか方法がある.

今朝は,遠回りだが乗り換えは2回でARLを始発から乗れて座れるというメリットがある方法を選んだ.まず,BTSでプロンポンからパヤータイまで行き,そこでARLに乗り換えてラカバンで降りる.ラカバンでSRTに乗り換えてひと駅,KMITL構内にあるプラチョムクラオ駅に至るというルートである.なお,安さと乗り換え回数の少なさを追求するなら,パヤータイからSRTに乗るという選択肢もある.ただ,このSRTがちょっと曲者なのだ.それについては後述する.

乗り換え回数を厭わなければ,BTSでひと駅,アソークで降りて地下鉄,MRTに乗り換え,これまたひと駅,ペッチャンブリーで降りてARLの最寄駅であるマッカサンに乗り換えるという手がある.SRTのアソーク駅でもいい.

ただ,乗り換えが実に面倒なのである.なぜなら,都度,切符を買わねばならないから.

MRTはVISA touchで乗れるようになったので,面倒はない.BTSも,プリペイドカードがあるようなので,そのうちそれを買っておこうと考えている.しかし,SRTはキャッシュオンリーである.しかも,SRTは,大きな駅は別として,無人駅では車内で精算.マッカサンのような都市の駅でもそれだから,まあ,自由奔放というかなんというか,まあ,要するに,マイペンライ.

そんなわけで,ドアトゥドアで1時間強の通勤である.ちょっと長いけど,そんなもんかなという感じ.ただこの感覚は,タイ人には理解し難いようである.まあ,そうだよね.東京の通勤事情が異常なのだ.23区内の自宅から多摩キャンパスに通っていたことを考えると屁でもないが,そんな感じで通っている.

で,自宅からKMITLまでの通勤,最後のSRTが鬼門なのだ.これが1時間に1本,あるかないかというチョー過疎ってる運行で,しかも,時間通りに来ない.今朝は8時50分にラカバン駅に来るはずの列車が9時に来た.帰りは,KMITLのもう一つの最寄駅であるフアタッケー駅に16時8分に来るはずの列車が,16時ちょい過ぎに来た.タイムテーブルはあまりアテにならない.

余談だが,KMITLのキャンパスはだだっ広くて,プラチョムクラオとフアタッケーという駅が構内に二つある.北大の最寄駅として,北12条,北18条,北24条と三つの駅があってみたり,東大の最寄駅が本郷三丁目と東大前と二つあったりするみたいなもんかな.

それで,まあ,今朝の通勤時,なんとかプラチョムクラオまでたどり着いのだが,そこは無人駅.しかも,改札口も柵もなにもない.みんなどうしてるんだろうと,学生たちと思しき若者たちの後についていったら,線路を歩いてキャンパスに入っていった.

若いころ,終電を逃した目蒲線で,寮に帰るために近道しようと線路の上を……ゲフンゲフン,それはともかくとして,この歳になってスタンドバイミーみたいなことをするとは思わなかったよ.

2025年11月2日日曜日

タイの先生、王妃の話(お気楽クルンテープ通信 No. 5)

タイの大学の先生方から名刺をもらうと,ちょっと驚くことがある.Assistant ProfessorやAssociate Professor,日本語でいう助教や准教授の肩書きを持つ先生方が,学部長だったり学長だったりするのだ.

日本ではまず考えにくい.うち(中大iTL)は違うけれど,日本には教授だけが教授に参加できるという大学もあるらしい.中大でも流石に行政職,学部長だのセンター長だの,いわゆる組織の長になるのは教授職じゃないといけないという暗黙のルールがある.暗黙?明確に決まっていたかも.どっちだったっけ.学則かなんかで決まってたかな.

ああ,組織のルールに無頓着なのがバレてしまった.いずれにしても,准教授が学部長に選ばれたなんて話は聞いたことがない.

それで,タイの大学ではどうなんだろう?と,AIに聞いてみた.どうなんだ?と.次はその答えからの抜粋である.

🎓 Academic Ranks vs Administrative Roles in Thailand

Academic ranks in Thailand follow a progression: Lecturer → Assistant Professor → Associate Professor → Professor. These ranks are based on academic achievements, publications, and years of service.

Administrative roles like President, Dean, or Vice President are not strictly tied to academic rank, though higher ranks are often preferred.

まず,アカデミックな職位と行政職の役割は明確に区別されている.助教と講師の関係が日本と逆のような気もするが,Lecturer(講師)から始まって,助教,准教授,教授と昇進すると説明されている.そしてそれは明確に研究業績に基づくものとされる.まあ,これは全世界でほぼ共通のルールだろう.最近の日本では実務家教い……ゲフンゲフン.

一方の,学長やら学部長やらという行政職は,より高い職位の方が選ばれがちであるとはいえ,厳密には結びついていない.なので,准教授の学長や助教の学部長が生まれるというわけだ.

へぇー.面白い.権威とかどうなってるんだろう.関係ないのかな.

閑話休題.

10月25日にシリキット王妃が逝去し,街は服喪ムードに溢れている.人々の生活はほぼ変わらず,昨夜,ハロウィンの晩は,あちこちでハロウィンパーティなんかして人々はだいぶ燥いでいたようだが,それはそれとして街のいたるところにシリキット王妃を偲ぶ掲示が出ている.

これはプロンポンにあるショッピングモールの入り口.大画面で喪に服している.

パヤータイのオフィスビル入口には記帳場が設けられていた.

大学も大々的に哀悼の意を掲げている.

コンビニのレジですらこれ.

驚いたのはこれである.街角にあるATMが,のきなみコレなのだ.識者によれば,通常は広告が出ているんだろう,それを差し替えたのでは?とのことだが.

これらのほかにも,写真はないけれど,BTSのホームドア内側にあるデジタルサイネージや,うちのマンションのエレベータのなかにあるサイネージまで,黒基調の追悼メッセージが表示されていた.ネット上でも,各種ウェブサイトにアクセスしてみると,同じような黒い画面が出てくることが多い.シリキット王妃がいかに国民から愛されていたかがわかる.

2025年10月30日木曜日

在留届(お気楽クルンテープ通信 No. 4)

3ヶ月以上海外に逗留する在留邦人は,外務省に「在留届」という書類を出さないといけないらしい.こういうの,誰も教えてくれないんだもん.初めての人はわからないよねー.

旅券法第16条の規定で,外国に住所等を定めて3ヶ月以上滞在する日本人はその住所等を管轄する日本大使館・総領事館へ在留届の提出が義務付けられているとのこと.なお,この堅苦しい表現は外務省のウェブサイトにあるFAQに書かれている文言を参考にしたのだけれど,住所等の「等」ってなんだろうな?

在留届を出しておくと,緊急事態が発生したようなときにそこに連絡が来るなんてこともあるようで,海外在留邦人の強い味方というわけだ.もっとも,政府側でも海外に出張っている邦人の実態を把握しておきたいという管理面の狙いはあるだろうが.唯我独尊,孤軍奮闘,雑草魂……反体制を気取る私とはいえそこまでマヌケではないので,こんなことで無駄に抗っても意味がない.私のプライベートな情報まで素直にまるっと差し出すことにしよう.

というわけで,在留届なるものを提出した.日本人がタイの銀行で口座を開設する際に在留証明書なる書類が必要になるらしく,在留証明書はこの在留届が前提になっているのだろう.在留届がなければ在留証明書も発行してもらえないはずだ.いろいろ調べていて在留届の存在をたまたま見つけた.見つけられてよかった.銀行口座が作れないどころか不法滞在になるところだった.ならないか.

昨今は便利なもので,オンラインで在留届の情報を提出できるオンライン在留届という制度がある.オンライン在留届のウェブサイトにあるフォームにポチポチと情報を入力し,「必須」とあるところは全て埋めたら,簡単に届出できた.あっけなく終わってちょいと拍子抜けしたくらい.

ちょっとだけ困ったのが自宅の電話番号を入力させるところ.なぜかっていうと,電話ひいてないから.携帯電話もデータ通信オンリーのe-simなので,電話番号はあるようなないようなという感じ.いちおうなんか番号めいたものは付いているのだが,音声通話はできないし.なにしろ15日間ごとに激安e-simを買いつないで凌ごうという作戦なもんだから,そもそも番号もコロコロと変わってしまう.

いまどきの通信手段は電話に限らないのだから,電話番号を求められても困っちゃうのよねー.と,愚痴をこぼしていてもしょうがないので,KMITLの先生の電話番号を入力しておいた.適当だな.マイペンライ.まあ,何かあったときは,そこに連絡が行けばいろいろ伝わるでしょう.

2025年10月29日水曜日

オンライン学会に参加(お気楽クルンテープ通信 No. 3)

昨日,今日はICTILAという国際会議にオンラインで参加している.International Conference on Technology and Innovation in Languages and Artsという学会である.キーノートスピーカーとして何か喋ってくれとインドネシアのL女史から頼まれ,たしか当初は20分と聞いていたが,蓋を開けてみたら,45分も喋らされることになっていた.彼女の依頼はいつもこうなので,まあ,もはや慣れた.

学会の会場はインドネシアは西スマトラにあるPadang(パダン)という都市である.L女史の故郷でもあり,これまでインドネシアを訪れるたびにパダン料理をご馳走になっていて,一度は行ってみたいと思っている場所だ.ちなみにパダン料理というのは,韓国のバンチャンみたいに小皿でたくさん料理が出てきて,手を付けたぶんだけ支払うというユニークなものである.どの皿も美味しいのでインドネシアを訪れた際にはぜひともパダン料理レストランを訪れてみることをオススメする.

それで,せっかく近くまで,といってもバンコクとパダンだとまあそれなりに距離はあるけれど,日本からを考えると相対的には近くまで来ているのだから現地行って喋ってもいいよーと申し出たのだが,予算がないからオンラインでと断られた.自費で行くからと言ってもよかったんだけど,先方からの回答を読み間違えて完全オンラインで開催するのかと勘違いし,じゃあオンラインでオッケーと答えた.

だが,そうではなかった.ハイブリッド開催だった.会場の様子をオンラインで伺っていると,けっこうな人数の参加者がおりたいへん賑わっている.やっぱり行けばよかった.でもまだこっちの生活が軌道に乗っていない状態なので,結局のところ,オンライン参加は結果オーライだったのかもしれない.

それにしても開催前日になってもオンライン会議の接続先を連絡してよこさないのでこちらからせっついたら,当日の朝になってやっと教えてもらった.インドネシアだなあ.ていうかいかにも東南アジアっぽいというか.まあ,かくいう私も発表資料を当日の朝に作っているくらいなので,お互い様か.マイペンライ.

ところで,オンライン学会の難しさというか,音声の取り回しは慣れないと本当に難しい.今回は,会場で中継している端末のマイクがミュートされていなくて,自分の喋る声が少し遅れて聞こえてくるので本当に喋りにくくて困った.最初に,喋りにくいからミュートにしてよ!って伝えたつもりだったが,私の説明がマズかったか,伝わらず,ミュートにしてくれなかった.致し方なく,こちらのスピーカーを絞りに絞って,なんとか凌いだという次第.

自分の声が少し遅れてくると本当に喋りにくい.これは人間の性質らしい.この性質を利用してずいぶん昔に産総研の栗原さんたちがスピーチ・ジャマーという機械を発明して,イグ・ノーベル賞を受賞している.超指向性マイクと超指向性スピーカーを組み合わせた装置である.

黙らせたい人に向かってスピーチ・ジャマーを向け,そのお喋りを超指向性のマイクで拾う.そして少し遅らせて,これまた超指向性のスピーカーを使いピンポイントで当人にフィードバックさせるという代物だ.狙われた人は,少し遅れて自分の声が耳に入るので自動的に喋られなくなる.超指向性のマイクとスピーカーを使っているので,当人以外は何が起こっているかわからないまま,やかましい人を黙らせるという機械である.

うまいこと考えたもんだと当時はとても感心した.イグ・ノーベル賞受賞もさもありなん.スピーチ・ジャマーというネーミングも素晴らしい.妨害者を意味する「jammer」と「邪魔」を掛けているんだよね?

さて,こちらでのアルコール販売の話ふたたび.

朝,セブンイレブンに朝食を買いに行き,水も切らしてしまったので飲料も買おうと奥に進んだところ,アルコール飲料の棚が閉じられていた.ご丁寧に各国語で説明があり,日本語でも「販売時間は11時〜14時までと17時〜24時まで」と書いてある.そうなんだ……

2025年10月28日火曜日

タイ語と弁当(お気楽クルンテープ通信 No. 2)

昨日はリモートで東京に繋ぎ,オンラインでゼミをした.最初は向こう側の設定で学生がドタバタしていたが,まあ,なんとかなるもんだな.ITに関する専門家の端くれのつもりではあるものの,なかなかに感動的だ.ITの進化には目を見張るものがある.

ゼミが終わったあとに,近所のスーパーにシンハーを買いにいったら,「マイダーイ」と言われ,さながら勘定奉行がごとく手のひらをこちらに差し出された.午後4時半ころである.マイダーイというのはタイ語でダメという意味だ.それで「ああ今日はアルコールダメな日か」と思った.タイにはたまにアルコール販売禁止の日がある.どういう基準で決まるのかは知らないが,たまにぶち当たるととても残念な気分になる.

しかし,あとで識者に教えてもらったところによると,アルコールの販売は時間制限があって夕方は午後5時を過ぎないとだめなんだとか.彼のジェスチャーは「5時まで待て」という意味だったわけだ.

「ダーイ」というのは可能を表す助動詞だそうである.いま私がこちらで居を構えたマンションの玄関には顔認証装置があるのだが,認証されると「……カオダーイ」と音声で案内が流れる.最初のほうはまだよく聞き取れない.それで,カオというのは入るという意味で,カオダーイは「入れます」ということになる.それにしても玄関を通る都度「顔だーい」って言われて,顔認証なんだものそりゃそうでしょという思いが頭に浮かび,心のなかでいつも苦笑いしてしまう.

さて,「マイダーイ」である.「マイ」は,否定を表す.レストランで「マイペ」と伝えると,料理の辛さを抑えてくれる.「ぺ」は辛いという意味であり,私は辛いのが好きなのでもっと辛くしてくれはなんと言うのか?と聞いたら「ぺ・マクマーク」というのだそうだ.マクマークは,もっともっと,という意味らしい.マイペンライのマイも,おそらく無問題の「無」なんじゃないかな.ということで,もうお分かりだろう.マイとダーイ,なので,マイダーイは「できない」=ダメ,ということなのだと理解したが,どうかな?

タイ語といえば,こちらに来て毎日一つずつタイ語の文字を覚えていこうと頑張っている.Duolingoにタイ語のコースがないのがとても残念だ.Duolingoは韓国語を勉強するのにとても役立った.韓国語とタイ語には共通点があって,両者はいわゆるプレースホルダに相当する文字を持つ.韓国語の「ㅇ」とタイ語の「อ」である.日本語や英語にはない概念なのでなかなか馴染めないが,他の言語でもあるのだろうか,面白いよね.

韓国語との共通点をもう一つ.タイ語でいろはの「い」に相当する「ก」は「kɔɔ kài」(コーカイ)と読むのだが日本人の私が耳で聞くと「ゴーカイ」に聞こえてこれは韓国語の「ㄱ」に通じるものがある.韓国語の「ㄱ」も澄んだり濁ったりする.濁音と清音の聞き分けはけっこう難しい.

ところで,話は変わって,弁当の話.

この部屋にキッチンは付いているが食器と調理器具をまだ揃えていないのでコンビニの弁当にだいぶ世話になっている.セブンイレブンが歩いてすぐのところにあるので便利このうえない.で,どんなものを食べているかというと,こんな感じ(写真).これで50バーツ前後なので日本円にしてだいたい250円くらい.まあリーズナブルではある.

これがおしなべて辛いのだ.私は辛い食べ物は問題ない,というか,どっちかっていうと好きなので,私にとってはウェルカムではある.しかし,そんな私でもけっこう辛いと感じるほどの辛さである.これ,辛いの苦手なひとは厳しいんじゃないかなあ.

2025年10月27日月曜日

PMアワード受賞

一般社団法人ことばのまなび工房が実施している「日本語を話さない人とのコミュニケーション&コラボレーションプロジェクト」がPMI日本支部から2025年PMアワード奨励賞を受けた.実にめでたい話だ.写真は(本人いわく)「高く評価されて鼻高々」な代表理事の若林先生である.

この表彰式とその後のレセプションパーティ,私も行きたかったが,いかんせん遠くバンコクに落ち着いたばかりで東京に舞い戻るわけにもいかず,欠席することとなった.私の代わりに参加した,プロジェクト参加経験のある学生のKくん,楽しんでもらえたかな?

ともあれ,ありがたい賞をいただいたわけで,しかも,奨励賞である.もっと励みなさい,というメッセージとして受け取った.本プロジェクトはまだ道半ば,今後,いっそう精進していく所存である.皆様も応援してください.どうぞよろしくお願いいたします.

2025年10月25日土曜日

新居に引っ越し(お気楽クルンテープ生活 No. 1)

こちらでの生活拠点はプロンポン駅から歩いて5分ほどのマンションである.迂闊にも日本人街のど真ん中に居を構えてしまったので,異国感はあまりない.まあ,それも良し悪しではある.すぐそばにセブンイレブンと24時間営業のスーパーマーケットがあり,しごく便利な場所ではある.

ところで,バンコクには来たものの,来た時点ではマンションの契約をしていなかったので,最初の3日間はホテル暮らしだった.いつまでもホテル暮らしというわけにもいかず,昨日,いろいろな手続きを済ませ,入居した.デポジットが2ヶ月分必要ということで,けっこうな金額を支払う必要があったが,少し多めに現金を持ってきていたので問題なかった.

昨日は,鍵を受け取り,契約書にサインし,玄関の顔認証装置のための顔写真撮影をした.インターネットの業者が来てネットを開設してもらい,これで通信環境も万全である.家賃の支払いのために銀行口座を開きたいところだが,観光ビザでは銀行口座を作れない.ただ銀行講座の開設に関しては,KMITLのスタッフが尽力してくれているらしいのでそれを待つことにする.

いろいろな手続きは中大タイオフィスのスタッフであるTさんが面倒をみてくれてとても助かった.彼女が居なかったら何もできなかったに違いない.今回,電話は持たず,屋外での通信は15日ごとに1,000円強というklookの激安e-simで凌ごうと考えているのだが,銀行のATMを操作するにも電話番号の認証が必要だという状況を知り,どうしたもんかと少々悩んでいる.1年以上滞在するなら,こっちの電話を買ってしまうんだけどな.

ひと通り事務処理を済ませ,あとは家財道具の買い出しをした.水,トイレットペーパー,シャンプー,ベッドリネン一式,ハンガー,洗剤,ビールなど.最後のが重要,命を紡ぐマテリアルである.まあ,それはともかくとして,買い出しにはKMITLでもらったショッピングバッグが実に役に立った.何が幸いするか,本当にわからない.

2025年10月24日金曜日

タイ語でタイポグリセミアは成立するのか?

今週からバンコクでの生活が始まった.バンコクでいったい何をするのさ?という質問をされると,実は具体的に,何月何日にこれをやる,という詳細なスケジュールががっつり決まっているというわけでもないのでなかなか回答に困ってしまうのだが,いちおうは在外研究費としてそれなりの研究費をいただいているのでちゃんとした計画はあり,SMILEプロジェクトのタイ側のサポートというか現地を訪問してフィールドワークをすることになっている.

ただし,それ以外にもKMITLの先生方と共同研究をすることは決まっていて,問題は何をするかなのだが,まあ,その相談も込みでこれから考えていこうという,いかにもマイペンライな状態ではある.

タイポグリセミア各国語版

ということで,いま,一つ気になっているのが,タイ語でタイポグリセミアが成立するのか?ということである.とりあえずは英語とその他の欧米諸国のいくつかの言語,マレー語,日本語(ひらがな分かち書き版)で成立することは,関連研究の調査と我々の経験で分かっている.また,先日のCOSCUPで講演したときに「中国語でも成立しますよ」という情報をいただいた.中国語で成立するということは分かち書きなしでも成り立つということで,現在,日本語でも分かち書きなしの通常版タイポグリセミアを実験すべく,学生とあーだこーだとやっている.

で,せっかくタイの先生方と共同研究する機会を得たので,タイ語ではどうだろうかということを試してみたいのだ.

しかし,タイ語はそんなに甘くないのであった.かねてより,タイ語の自然言語処理は難しいとタイ人の自然言語処理研究者から聞いていたが,外国人の私から見ると,より難しそうに感じる.

タイ語の難しさ

まずはこれを見てほしい.いま宿泊しているホテルの最寄駅,パヤータイ駅で撮った写真である.

「ทางออก」と書いてある.私のタイ語レベルはまだ初級も初級だが,タンゴーク(ターン・オォーク)と発音するということは知っている(カタカナ読みだけど……).一つ一つ,文字をざっくり解説すると,ทがt,าがa,งがng,อがoで,กがkに相当する.

ここで,「ทはt」ということ覚えておいてほしい.

では,次の写真を見ていただきたい.駅名の表示である.「พญาไท」である.

個々の文字についての解説は控えるが,最後の文字,皆さんは読めますね?先ほど「覚えておけ」と強調しておいたtに相当する文字である.しかし,これはパヤータイ.パヤーアイトではない.はて?

じつは,「ไท」でthaiになる.ไがaiなのだが,子音が右に付くのである.通常,子音+母音で音を表すところ,このパターンでは母音+子音で音を表すという組み合わせになっている.さらに細かいことをいうと,ญの下にはみ出ている部分はaに相当するので,母音が下にはみ出ていることになる.

このように,タイ語では,左から右に素直に読んでいくのではなく,上に行ったり下に行ったり,ときには飛ばして読んでから左に一度戻ったり,という読み方をする.

はてさて,こんな言語で,タイポグリセミアって,成り立つんだろうか?

2025年10月23日木曜日

南国生活スタート(お気楽クルンテープ通信 No. 0)

一昨日,10月21日に東京からバンコクにやってきた.これから7ヶ月あまり,モンクット王工科大学ラートクラバン校(KMITL,King Mongkut's Institute of Technology Ladkrabang)に客員研究員としてお世話になる予定である.昨日はKMITLで私を受け入れてくださるIoT情報工学科(Dept. of IoT and Information Engineering)の学科長やいろいろとご尽力くださった国際課(OIA, Office of International Affairs)の先生方にご挨拶に行き,これからのことについていろいろと相談をした.思いがけずKMITLの学長にもお会いでき,ご挨拶して記念写真まで撮ったのはちょっとしたハプニングというかなんというか.

それにしても,今回の件,COVID-19パンデミックがなかったら当時その関連するテーマで行われたオンラインセミナーに講師として話題を提供することもなかったし,そこにKMITLのM先生がオンラインで参加してさらに質問だったか何かでメールで問合せを受けなかったら知り合いになることもなかった.さらには,我々がSMILEプロジェクトをやっていなければKMITLとChuo iTLで交流活動をすることもなかったし,M先生の提案がなければKMITLと中大で大学間協定を締結することもなかった.そして,その協定がなかったら私が客員研究員としてKMITLにやってくることもなかった.こうやって振り返ってみると,激流のなかを流されている小舟のような気持ちになってきた.運命というかなんというか,だから人生は面白い.

さて,いろいろ出張で自宅を留守にすることが多い生活を続けてきたが,半年という長い期間,自宅を離れて一人で暮らすのは四半世紀ぶりである.しかも異国の地で.まあ,いろいろ事情があって期間中にちょいちょい東京に帰ることもあるんだけど.このIT時代なのでいろいろとしがらみは自動的に付いてきてしまうのが難儀ではあるが,まあそれは致し方なし.それはともかくとして,これから半年,何が起こるかとても楽しみで,オラ,わくわくすっぞ!