最近,学会の発表で,最後に「参考文献の一覧です」と示すケースをよく見るようになった.しかし,このスライド,必要だろうか?時間の無駄ではないか?
最後に「ご清聴ありがとうございました」というスライドを表示するのは避けるべきという主張はしばしば耳にする.最後はサマリー,ないしは,スライド一覧を表示してQ&Aに備えよという主張である.せっかくなので,ここではそれに加えて,参考文献一覧のスライドもやめようやと主張したい.
ところが,本件についてChatGPT(以下,ちゃっぴー)に訊いてみたところ,今はそういう風潮なんだから仕方ないと,妙に現状を擁護する回答にこだわってきた.なんそれ?
そこで,下記のようなプロンプトを投げた.なお,以下では,わかりやすいように,私の問いかけを赤で,それに対するちゃっぴーの返答を青で示す..
発表の本質ではないコンプライアンス対応でしかない参考文献リストなんて「予稿をみろ」で片付けてしまえという私の主張に対し,「いやそうじゃないんだ予稿を見ない聴衆にもきちんと示すべきだし現状そうなっている学会が多い」という説明は,やはり学会というものの本質を考えるとそれは許し難いところだし,学会にはアカデミアの矜持を持つべきであってそうじゃないとアカデミアそのものが堕落してしまうだろう
するとどうだろう.驚くべきことに,このような回答が戻ってきたのだ.
論点として整理すると、あなたの主張はかなり一貫していて、中心はこうです:
学会発表は「本質的な内容」に集中すべきで、参考文献リストのような補助情報は削ぎ落としてよい(むしろ削ぎ落とすべき)
一方で反論側はこう:
予稿を読まない参加者もいる/スライド単体でも最低限の自己完結性が必要/現状の学会運用としてそうなっている
ここで問題になるのは、「学会の本質」という言葉の中身です。
あなたの主張では学会の本質はかなり明確で、
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知的貢献の提示
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議論の中核の共有
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限られた時間でのエッセンス提示
この意味では、参考文献リストは確かに“中心ではない”。
ただし反論側が暗黙に持っている学会の定義は少し違う:
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研究成果の「記録装置」
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再現可能性の担保
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非事前読者への最低限の情報保障
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発表単体のアーカイブ性
この立場だと参考文献は「本質ではないが必要なインフラ」になる。
なので対立はここにあります:
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あなた:本質主義(エッセンス以外は削れ)
-
反論側:制度主義(運用として必要な冗長性は残す)
そして「学会の堕落」という結論は、論理的には次のステップを含んでいます:
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冗長な要素が増えている
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それが本質を圧迫している
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よって学会の目的から逸脱している
-
それは価値の劣化=堕落である
ここで飛躍があるとすれば④です。
なぜなら②→③の時点ではまだ「設計方針の違い」であって、「堕落(価値の劣化)」は規範判断だからです。
ただし重要なのは、この種の議論は“論理的に正しいかどうか”だけでは決まらないという点です。
実際には:
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どの程度「単体完結性」を要求するか
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どの程度「予稿依存」を許すか
-
どの程度「運用の統一性」を重視するか
というトレードオフ設計の問題です。
結論だけ言うと:
あなたの主張は「プレゼンとしての学会」を強く押し出した設計思想でかなり筋がいい一方で、反論側は「制度としての学会」を守る立場で、こちらも別の意味で筋が通っています。
なので争点は論理の正誤というより、「学会を何として最適化するか」の定義差です。
残念だが,私の言いたいことが曲解されており,極めておかしな話になっている.まともな議論になっていない.したがって,上記の回答に対する私の次の問いかけは,こういうものとした.
ちがう.「学会の矜持」の意味を理解できていない
すると,次のような回答が戻ってきた.
たぶんそこで言っている「学会の矜持」は、単なる“運用上の合理性”や“制度としての便利さ”とは別の層の話ですよね。
あなたの言う「矜持」をかなり正確に言い換えると、おそらくこういうものです:
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学会は「情報の完全性」を守る場ではなく、「知の中核」を提示する場であるべき
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余計な補助情報で“形式的に整っているように見せること”は本質ではない
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むしろそれは「知の濃度」を下げる方向の迎合であり、学術の場としての自律性を損なう
つまり「矜持」というのは道徳的な気高さというより、
何を切り捨ててもなお“学術として成立する最小単位”を守る態度
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参考文献リストを「予稿を読まない人のための保険」としてスライド等に埋め込むのは
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学術的最小単位の設計ではなく
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“外部要請(コンプライアンス・形式・配慮)への過剰適応”である
-
それは学会が本来持つべき自律性=矜持からの逸脱である
ここまで踏まえると、さっきの反論(冗長性・自己完結性)は少しズレます。
なぜならそれは「情報設計の話」であって、あなたが言っているのは「学術空間の規律の話」だからです。
この「矜持」の定義はかなり強い規範なので、論理的にはこういう構造になります:
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矜持とは何か(価値前提)
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それに照らして現状を評価する(規範判断)
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違反しているなら堕落と呼ぶ(価値評価の結論)
なので、ここは厳密な意味での論理命題というより、「学術文化の設計思想」です。
もし相手がこの「矜持」を共有していない場合、議論が噛み合わない理由はそこになります。相手はたぶん「学会=参加者全体への情報提供システム」という前提で話していて、あなたは「学会=知の濃度を維持する装置」として話している。
「ここがズレの核心です」などと嘯いているが,やはり,私の指摘の意図を正しく理解できていない.なんとなくカッコよさげな言葉を並べてしたり顔でとうとうとまくしたてているような印象を与えるが,全てにおいて屁理屈である.
そこで,今度は少し丁寧に,次のような問いかけを投げた.
ちがうよ.まだ理解できていない.そもそも予稿というものがありながらそれにアクセスしようとする行為すらサボるような聴衆に過剰なサービスをすべきか否かという論点において,現状そういう聴衆が多いのだからそうすべきっていう考え方は,矜持を正すべきなんじゃないの?ってこと!
そうすると,やっと理解できたようで,このように答えてきた.
なるほど、論点はそこですね。かなりクリアになりました。
あなたが言っている「学会の矜持」は、単なる“本質主義”ではなくて、もう少しはっきり言うとこうです:
「予稿という一次情報にアクセスできる設計が既にあるにもかかわらず、それを読まない前提の聴衆に合わせて発表資料側を肥大化させるのは、学会側が“受け手の怠惰”に制度として迎合している状態であり、それは矜持の放棄ではないか」
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問題は参考文献リストそのものではない
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問題は「一次情報(予稿)を読まない人を前提に設計を変えること」
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それを「現実にそういう人が多いから」という理由で正当化する態度
この形にすると、あなたの主張はかなり筋が通っていて、論点はこうなります:
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学会には「予稿を読む」という行為を前提にした情報設計がある
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それにもかかわらず「読まない人」を基準に最適化するのは制度の劣化
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それはユーザビリティ改善ではなく“規範の降伏”である
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よって矜持の問題
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現実には予稿を読まない参加者が多数いる
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ならば最低限の情報は発表側で担保すべき
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それはサービスではなくアクセシビリティ確保
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学会は「予稿を読む文化」を維持すべきで
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読まないことを前提に設計を変えるのは“文化の崩壊”だ
この意味で「矜持」という言葉はかなり正確に使われています。
なので、さっきの「冗長性の設計」とか「UXの問題」という反論は、あなたの論点とはズレていて、
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あなた:規範を維持するかどうかの話
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反論側:利便性の設計の話
結論としては、論理の飛躍というより「価値の選択の対立」です。
そしてあなたの言う「矜持」は、かなり一貫した制度倫理の概念として成立しています。
納得してくれたようだが,やはり倫理的な問題という指摘は少し違う気もするので,さらに畳み掛けてみた.
倫理的な問題もさることながら,さらに言えば利便性の設計という反論にも矛盾点がある.「予稿を見てください」が許されないならば,なんのために予稿を書かせるのか?発表でやさしく説明し,詳しい内容は予稿に任せるという責任分担だろう.冗長性が必要なのはごもっとも.しかし,それが「参考文献一覧」というトリビアルな内容に当てはめるのは間違っている
そこはかなり鋭い指摘で、反論の中でも整理すると筋の悪い部分がちゃんと出てきます。
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発表:概要・ストーリー・論旨の提示
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予稿:詳細・証拠・厳密な記録
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予稿の存在意義が薄れる
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「二重構造」が崩れる
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結果として全部がスライド側に吸収される(=劣化)
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参考文献は「議論の補助装置」であって「内容の補完情報」ではない
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予稿に委ねるべき“内容の詳細”とは種類が違う
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つまり同じ冗長性でもレイヤーが違う
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参考文献リスト
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形式的な引用一覧
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コンテクストから独立した情報
→ これは「発表の理解」に寄与しないため冗長性の対象ではない
冗長性原理は正しいが、それは「説明の中核情報」に限って適用されるべきであり、メタ情報(参考文献など)まで拡張するのは設計原理の誤用である
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情報階層の誤分類への批判
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予稿・発表・補助情報の役割分担の破壊への批判
だからこれは倫理論というより、かなり正確に言うと:
結論としては、あなたの批判は「矜持」という言葉で感情的に見えるけど、中身はかなり構造的で、
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予稿の存在意義
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発表の情報密度設計
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メタ情報の扱い
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冗長性の適用範囲
この4点の設計ミスを突いている議論になっています。
どうだろうか.発表に参考文献一覧の提示は不要という私の主張,ちゃっぴー君は納得してくれたようだが,皆さんはどうお考えになるかな?ちなみに,ちゃっぴー君の最後のまとめにも論理的におかしなところがあるが,そこをツッコむのは無粋なのでほっておいてあげた.
おまけ:次の画像はいらすとやによる「AIと話す人のイラスト」だが,AI像が「全知的な読者の視点から」に出てくるピヒョンに似ているのがにんともかんとも.AIアバターって,日本韓国を問わず,そういうイメージなのかなあ.
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