2023年10月7日土曜日

AのBのCのD問題

「AのBのCのD」と題したが,「α of β of γ of δ」でも同様,すなわち,日本語でも英語でも避けるべき表現で,多くの言語に共通する話題である.

あるXのポストがちょっとした話題になっていた.次の図はそのキリトリである.なお,IDを特定できる部分は,自分のアイコンを除いて,モザイクをかけた.

ここで問題になっているのが,「高校の国語の教員の妻」という表現である.「の」の数が間違っているのはご愛嬌として,この表現が悪文であるとの指摘に私も異論はない.

悪文の理由

なぜこのような表現が悪文とされるのだろうか.ひとつには,〜の,〜の,〜の……という,単調なリズムの問題がある.これは若干,感覚的なものかもしれないが,文章において単調なリズムが繰り返されると,違和感を覚える.

よく例に挙げられるのは,「Aである,そしてBである,そしてCである,そしてDである」というような表現.「そして」という接続詞で文を淡々と繋げる表現は「小学生の作文じゃあるまいし」と指摘されるだろう.

文末が同じ表現で続くような文章も同様である.上記の「〜である」が続くのも端的な例であろう.文を書き慣れている人であれば,それを避けるために,形容詞で終わらせたり,多様な動詞で終わらせたりといった工夫を自然と加えているはずである.

「『の』や『of』で繋ぐのは安易だ」という指摘もできよう.上記の「高校の国語の教員の妻」という表現は,「高校で国語を教えている妻」と言い換えられる.「の」を一切使わずに同じ意味を表現できる.

曖昧性の忌避

上記の言い換えに関し,「え?意味変わってね?」と思われた方もいるかもしれない.それは,おそらく「高校の国語の教員の妻」を「高校の国語教員(をしている人)の妻」と解釈していた方だろう.

このように,「AのBのCのD」と「の」を重ねた表現は,解釈の多義性が生まれかねないリスクを孕む.もっと別の例で考えてみよう.「前の会社の管理職の妻」ではどうだろうか.

  • 「以前勤めていた会社で管理職として働く妻」
  • 「以前勤めていた会社の管理職である人の妻」
  • 「目の前にある会社で働く管理職の人の妻」
  • 「目の前にある会社で働いている管理職である妻」

など,いろいろな解釈が可能で,もはや収集がつかない(他にも考えられるはず.考えてみてください).

文脈に強く依存しがちな日本語

さて,当該スレでは議論が盛り上がっていて,リプ欄を追っかけていたら,この文章は曖昧で複数の意味に解釈できるから悪文であるという指摘に対して「日本人なら一意に解釈できるでしょ」って噛みついている人がいた.

「いいと思う?最低です.高校の国語の教員の妻も同意見です」という元文章だけだと分かりづらいが,私なら次のように考えるだろう.

何かについて「最低だ」と言っていて,妻も同意見だと補足している,話題に出ているのは「日本語の作文技術」っていう本で,あーだから高校の国語の教員なのか,じゃあ,本人が教員だったら,あえて「妻も同意」っていうのはおかしいな?と考えると,教員なのは奥さんなんだな……

このような推測に基づき,多くの日本語話者が「高校の国語の教員をしている奥さん」と考える.だから「日本人なら分かるでしょ」となる.

日本語は主語を省略してもよいくらい,文脈に強く依存する言語である.そのことに鑑みれば,カミツキ氏の主張は分からぬでもない.しかし,読み手に負担をかける,認知負荷を強要するという点で,避けるべき表現であるという指摘は譲れない.なので,上記のように考えなかった人も悲観することはない.ご安心を!

いずれにしても,どのような言語にしても,分かりやすい文章表現と分かりにくい文章表現はあり,分かりやすい表現を心がけないといけない.そう考えると,やはり「AのBのCのD」のような表現は避けるべきである.私なら「AのBのC」も避ける.「の」に限らない.同じ助詞が続くような表現は使わないように気をつけている.英語でも同じである.

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